松本市立鎌田中学校 妹尾圭子先生/27人で響かせた、伝説のトスカ!
約100人のバンドから、27人のバンドへ
松本市立鎌田中学校へ赴任したのは2002年の春。部員数は、つい先日まで科学部だった生徒を含めて27人。前任校(筑摩野中学校)では約100人の大編成バンドを指揮していて、小編成バンドの指揮は初めて。その違いの全てに面食らいました。勿論、半年後に普門館で金賞をいただくことになるなんて、本当に夢にも思っていませんでした。
さて自由曲をどうしようかと、地元楽器店のバンドアドバイザー・宮坂さんに相談。「人数が少なくても、オペラものならソロで歌っていけるのでは」とのアドバイス。確かに子供たちは歌うのが上手く、3年生個々の演奏技術にも光るものがあったので彼らに合うかもしれないと思いました。ただ、私自身は歌い上げるような曲をあまりやってこなかったので、その点には不安もありました。
5月に楽譜を配り、とにかくやってみたものの、なかなかしっくりこない。大切なクラリネットパートは3年生不在で、うち一人は例の科学部の生徒、もう一人はコントラバス兼任という状態。フルートやサックスでカバーしながらなんとか通していました(その後のクラリネットパートの頑張りぶりは言うまでもありませんが)。
そして何より一番の問題だったのは、やっぱり「歌」。楽譜に記された拍子とフレーズ感がリンクせず、ギクシャクした指揮・演奏になっていました。悩んでいたある日、楽譜に固執せず心地良いと感じるままにやってみようと思い立ち、演奏してみるとこれまでになく伸びやかに歌えました。勿論楽譜は大切ですが、表現の源はそれだけじゃないな、とあらためて思いました。
バンドの転機、本音でぶつかれ
そんな毎日を過ごして少しずつ形になってきたものの、何かが足りない。子供たちは本音をぶつけ合って表現を突き詰めるのではなく、妥協点の探り合いのような意見交換をしていたのです。彼らの関係性がうわべだけのつながりに見え、どうしても気になったので7月の地区大会直前に部長・副部長を呼びました。
話を聞いてみると、これまで代々、ちょっとしたいざこざで雰囲気が悪くなったり、部員同士のつながりが希薄だったり、そうした経験をいくつか重ねるうち、本音を隠してなるべく穏便に済ませようという思考が部内に生まれていたようでした。
ここを解決しないことにはどうしようもないと思い、ミーティングを持ちました。ここには書けないようなことが色々ありましたが、私自身も覚悟を持って彼らの中に入り、彼らがどうすれば安心して意見をぶつけ合えるようになるか、腐心しながら日々を過ごしました。そうして徐々に勇気を持って意見をぶつけ合えるようになりました。
このミーティングを機にバンドは大きく変わっていきました。音楽的に急速に飛躍したわけではありませんが、これまでのうわべだけの音楽とは、明らかに違うものになりつつありました。それでもまだまだ手応えなんてものは無く、とにかく心に響く演奏をしよう、とだけ思っていました。
迎えた地区大会。どうにか演奏を終えた私の元に恩師がツカツカとやってきて一言、「お前、何やってんだ」。
「車で例えるなら、今までお前はダンプカーに乗っていた。今は軽自動車なのに、無理矢理ダンプのエンジンを積もうとしているように見えるぞ」
確かに目指すべきサウンドはまだ模索中で、大編成に負けないダイナミクスを求めて試行錯誤を続けている状態でしたが、それでも「何やってんだ」とまで言われたのはショックでしばらく途方に暮れました(正確には飲んだくれました)。
それでも気を取り直し、何がダメだったのか、バンドの音を聴いてみようと思いました。録音でも指揮台の上からでもなく、なるべく遠くから客観的に聴こうと思い、部室の外から合奏を聴く日々が続きました。県大会まであと10日。気が付いたことをひとつずつ、無我夢中で解決していきました。
県大会をなんとか突破し、支部大会。「目指せ全国!」なんて露ほども思わず、無欲で目の前のことをやってきました。結果は「金賞・代表」。アナウンスされても私たちは事態を飲み込めず、ただ、「ええぇ? 代表ってなに??」という感じ。嬉しさもありましたが、どことなく実感の湧かないまま帰りのバスに乗り込みました。
目指すべきサウンドが明確に
この人数で、どうすれば普門館を鳴らせるんだろう…と頭を悩ませる日々が始まり、引き続き部室の外から色んなことを考えました。試行錯誤する中で、「絶妙なバランス・音色の統一を伴って倍音が鳴った時、大編成では出せない程クリアで、尚且つ迫力十分な音が鳴る」ことを感じるようになりました。目指すべきサウンドが明確になりました。27人しかいない、ではなく27人もいるじゃないかと発想を転換出来た瞬間です。
いざ、全国大会の舞台へ
いよいよ本番を明日に控え松本を出発。お昼頃宿舎に到着し、練習。私も子供たちも緊張はそれほどありませんでした。その日の夜、部長と副部長が部屋を訪ねてきました。手渡されたのは3年生13人からの手紙でした。泣かされました(この手紙は今も大切に保管しています)。
当日もみんな変わった様子は無かったのですが、Tbトップの太田君の緊張がほぐれず、ガチガチのまま舞台袖へ。もうすぐ本番という時、近くにいらっしゃった藤森章先生が、これまたここでは書けないスペシャルな方法で緊張をほぐしてくださり、元気に本番のステージへ。
いざ演奏を始めても、本当に普段通り、むしろいつもより心に響く演奏が出来ていました。課題曲は「ミニシンフォニー 変ホ長調」。作曲された原博先生は全国大会前にご逝去されていましたが、演奏中にふっとその存在を感じたような気がしました。自由曲もうまくいき、「金賞が取れるかも」と思ってしまった次の瞬間、バチが落ちるというハプニングが。それまで無欲で来ていたのに、欲を出すとロクなことがありません。会心の演奏をしたはずなのに、どうしてもそのことが頭に残ってしまって演奏後も気分爽快とはいかず自己嫌悪…。
それでも結果は金賞。ここでも、「ええぇ? 金賞ってなに??」という感じで、子供たちは「よその学校の方がうまかったよねぇ。」と言い合っていました。
その後、小さな演奏会を終えて3年生は引退していきました。4月に赴任してからの奇跡のような半年間。こんな奇跡、もう二度と起こらないと思っていましたが、翌2003年、そして2005年にも再び普門館に立つことが出来たのは、子供たちの努力の賜物だと思います。
エピローグ
あの日舞台袖でガチガチだったTbの太田君は現在、山形交響楽団のトップを務めています。いまだに交流は続いていて、どうしても困ったときは生徒を見てもらったりしています。今年の春はコロナ禍ならではのオンラインレッスンも快く引き受けてくれました。今後益々の活躍を心から願っています。