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菅野正美先生×福島県立安積女子高等学校

当時の福島県立安積女子高等学校(安女、現・福島県立安積黎明高等学校)は7年連続全国大会金賞。顧問の渡部康夫先生のご定年は知りつつも、自らに白羽の矢が立つとは想像だにしていなかった当時31歳の菅野正美先生の「はじめての全国大会」とは―
2025年10月03日

第40回全日本合唱コンクール全国大会(1987)
昭和女子大学人見記念講堂
高校の部B No.18 福島県立安積女子高等学校合唱団
自由曲:童声合唱とピアノのための組曲「のら犬ドジ」より IV.おやすみ (作詩:蓬莱泰三/作曲:三善 晃)

指揮:菅野正美
ピアノ:土屋知子、中野明子

まさかの顧問就任

 1986年。私は当時県内で最も荒れていると言われた高校で、リーゼントやロングスカートの生徒達と立ち上げた合唱部を指導する音楽教員でした。その年の冬のある日、校長室に呼ばれ「安積女子高校が菅野先生に来てほしいそうです」と伝えられました。渡部康夫先生が翌春ご定年だと存じ上げていましたが、引継ぐことなど想像だに出来ず、私には無理ですと即座にお断りしました。当時は校長会で人事を決めていましたが、後日「やはり菅野先生がいいそうです」とのお話が。真剣に考えましたがやはり私に務まるとは思えません。丁重にお断りして少し経った頃、県内で校長を務めていた義父からもこの話があり、もはや退路は断たれたと覚悟を決めてお受けしました。

 なぜ私だったのか、康夫先生は詳しくお話しくださいませんでした。それまで特別な接点もなく、教員の研究会等で少しお話する程度でしたから本当に驚きました。

日本一のバトンタッチ、涙の別れと歓迎の歌

 部活動の引継ぎはどんな学校でも難しいものですが、康夫先生は「日本一のバトンタッチを」と、非常に丁寧に引継ぎを準備してくださいました。当時の生徒たちに聞くと、全国大会以降は何を聞いても素っ気なく、生徒の前に立つことも殆どなくなり、「新しい先生をお迎えする準備をしなさい」と生徒たちを引き離されたそうです。その後、様々な場面で先生の「バトンタッチ」に助けられることになります。

 人事が正式に発表され、準備のため3月末に学校に行きました。その日は先生の最後の練習日でしたが是非ご一緒にと仰られ、私もその場にいました。練習とその後のお別れ会が終わり、ついに先生と安女の18年が終わる最後の瞬間。行かないでください、と泣きじゃくる生徒たち。涙ながらに車に乗り込み、去っていかれる先生。絆の強さを目の当たりにし、改めてとんでもないことになったなと思いました。

 それから着任の日まで、生徒たちが自分を受け入れてくれるのかと不安は募りましたが、なるようになると開き直り迎えた初日。3階の音楽室へと階段を上っていると、部長が待ち構えていました。私を音楽室までエスコートし扉を開けると、部員全員が「ようこそお越しくださいました」と声を揃え、歓迎の歌を歌ってくれました。その後は淹れたての温かいお茶が用意された音楽準備室に案内され、この上ない初日となりました。

変わったことと、変わらなかったこと

 こうして安女での日々が始まりました。個々が目立つのではなく、声を束にすることでとんでもない合唱になる「安女トーン」。康夫先生のご指導の賜物ですが、私は先生と同じようには出来ません。自分の勉強してきた声楽、その知見を彼女らに伝えようと考えました。当時部員は100人以上。一人ずつ指導する時間はなく、パートリーダーを指導しそこから各部員に落とし込む方法をとりました。

 そうして少しずつ今までと違う事が増えていきましたが、生徒の反発は一切ありませんでした。「新しい指揮者が来たら新しい音楽が始まる。今までと180度変わるかもしれない。それでも新しい指揮者についていけ」あの引継ぎ準備期間、先生はそう言い続けてくださっていたのです。

 選曲においても変えたことがあります。安女といえば日本語の曲でした。ただ、日本の曲を歌い続けていくうちに、いつしか外国曲は自分たちには無理だという意識が強くなっていました。その年の課題曲『Die Capelle (作詩:Ludwig Uhland / 作曲:Robert Schumann)』はとても美しい作品で、安女の響きでこの曲が演奏できたらと、夢が膨らみました。生徒たちにこの曲を歌ってみないかとたずねると、やはり不安そうにしています。指揮者が変わり、さらに選曲の方向性まで変わるのですから彼女らの気持ちもよくわかりました。しかし、確信をもって私はその曲を選びました。この時ばかりは先生も心配され、一度だけ私のところに来られましたが「生徒たちの新しい扉を開くためにこの曲を演奏したいのです」とお伝えすると私の決断を尊重してくださいました。

 一方、自由曲は私が新たな挑戦に取り組みました。7年連続金賞の間はずっと三善作品でしたが、私はそれまで殆ど三善作品に触れていませんでした。当時の私にとっては複雑で難曲ばかりでしたが、少なくとも先生と同じ7年間は三善作品を演奏すると心に決めていました。この年は最終的に『おやすみ』を選ぶまでいくつか候補がありましたが、生徒らの希望を聞きながらそこに落ち着いたという感じです。

ついに迎えたはじめての全国大会

 そうして練習を重ね、コンクールも近づいてきました。当時のシード制度で全国大会出場は決まっていましたが、生徒らの目標は全国金賞ではなく、自分たちの最高の音楽を目指すということだけでした。これも康夫先生の教えです。私も日々に精一杯で結果を考える余裕もありませんでした。外国曲を歌うこと、三善作品を歌うこと。私と生徒が補完し合いながら課題を克服していくような日々でした。仕上がりにはそれなりに手応えを感じていたものの、県大会、支部大会と演奏はすれど審査はされていませんから、評価への不安はありました。

 迎えた全国大会当日。人見記念講堂はとても響きの良いホールで、満足のいく演奏が出来ました。それだけで充分でしたが、願わくば金賞を…という思いで結果を待ちました。その年から評価制度が変わり金賞は5団体程度と予想されていました。プログラム順に結果発表が進み「金賞」の声に次々と歓声が上がります。そして私達の前に金賞団体は5団体に。発表が中断され、金賞校の指揮者が壇上へ促されました。結果を悟った生徒たちは一様に俯き、顔を伏せて失望感に満ちた空気が流れていました。その時、一呼吸おいて「金賞はあと一団体あります。福島県立安積女子高校」と呼ばれました。この時の生徒たちの喜びようは大変なものでした。あの発表はあえての演出だったのか、今や知る由もありませんが、私も大きく安堵しました。

今なお続く絆

 その後12年間安女を指揮しましたが、はじめての全国大会はやはり思い出深く私の心に刻まれています。この時の3年生は今56歳になっていますが、OG合唱団などで今でも一緒に歌い続けるメンバーもいます。今は昔のように部活動をするのは難しい状況にありますが、合唱は一生続けられるものです。いま一緒に歌っている仲間との時間は、ひょっとするとその後何十年と続いていくのかもしれません。

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