「音楽教師、最後の10年」:吉田 寛 先生 第1回『音楽教師の道へ』
60余年の歴史を誇る名門「埼玉県立川越高校音楽部」。そんな合唱団を、合唱指導経験ゼロで率いる事となった吉田寛先生、当時50歳。 教師を辞めようかとまで悩んだ着任当初から、いかに生徒と向き合い全国大会出場を果たしたのか。そして教師人生最後の10年で気付かされた、音楽教師としての自分の価値とは―
プロローグ
「誰に読んでもらいたくて書いてるの?」妻に訊かれた。 私は物忘れがはげしい。今年の3月で教師をやめると、たちまち今までどんな教員生活をやってきたのかを忘れてしまうかもしれないと本気で恐れている。半年以上も練習してきたコンクール自由曲の名を、次の年には忘れてしまうといったこともたびたびある。音楽の教師として、音楽にどのように関わってきたのか記録として残しておかないと、自分の生きてきた証がなくなってしまうのではという恐れが強くなり、川越高校での10年間を中心に覚えていることを書いてみた。
教員としての36年間は、もちろん山あり谷あり、文字にできないようなこともたくさんあった。音楽に限って考えても、いつも順風満帆とはいかなかった。それでも、「でもしか先生」で始めた音楽教師だったけれども、生徒と一緒に目標や夢を持ち、それに向かって懸命に努力することの素晴らしさ、楽しさを共有し、充実した時間を過ごせたことに感謝している。教師とはなんと幸せな職業なのかと思いながら去ることができ、出会えた生徒たちに感謝の気持ちでいっぱいだ。
私と同じ人生を歩む人はいないので、参考にはならないかもしれないが、「この部分はおもしろいね」「俺も同じ気持ちだ」「そういえばそんなことあったよね」「吉田はそんなことを考えていたんだ」と思って読んでくれる人がいるならばありがたい。 家族はこれを外に出すことを心配している。誰かを傷つけてしまうのではないか? あなたが意図しているようには考えてくれない人もいて、あなた自身が傷ついてしまうことになるかもしれないと。心配もしてくれ、アドバイスもしてくれる家族はありがたい。 2枚組のCDは、2005年度~2014年度までの川越高校音楽部の足跡である。そして生徒と共に歩んだ私の足跡でもある。興味を持った人は、ぜひ、聴いて、読んでほしい。私が顧問をしていた10年間の川越高校の音楽部の状況が良くわかると思う。そして私という人間がいた証もついでに心の片隅にとめおいていただけたら幸いである。
音楽教師の道へ
私の田舎、宮城県志津川町(いまの南三陸町)は、その当時電車も走っていない陸の孤島であり、小・中・高と同じ顔ぶれがずっと一緒に大人になっていく。中学時代にはエレキブームの影響で友人とバンドを結成。新聞配達のアルバイト代でギターを買った。楽譜のない曲も多く、テープを聴いて楽譜をつくっていた。そこから和音に興味を持つようになった。
高校では吹奏楽部に。メロフォン、ホルン、トロンボーンなども担当。2年の時、新任音楽教師として桑折金三 先生が赴任。3年のとき大学で音楽を勉強することを勧められた。それまで音楽の勉強をしていなかったため、教育学部の小学校課程に入学し、副専攻で音楽をとるようにアドバイスを受けた。また、大学では作曲の先生(椎名正己 先生)に師事するよう言われた。
受験勉強も佳境に入った高校3年の11月下旬。父が急性白血病で倒れ入院、翌月には仙台の病院へ転院した。その直後、それを心配した祖母も倒れ、家で寝たきりの状態に。母は小学校の教師で、土曜の授業が終わると父のいる仙台の病院へ通い(急行バスで2時間30分、鈍行だと3時間30分かかった)、家には祖母と私だけが残る。母のいない日は、祖母の洗面の用意をし、朝ご飯を作り、枕元に運び食べさせた。何度か病院へ連れて行ったりもした。受験勉強をしながらできるだけの手伝いをした。しかし、残念ながら祖母は翌1月の末に亡くなった。
それでもどうにか大学の教育学部小学校課程に入学し、4月から小学校課程のピアノと個人的に和声学の勉強を始めたが、5月中旬、入院していた父が危篤になり、ついに亡くなってしまった。人間とはこれほど涙が出るものかと思うほど泣いた。大学も10日ほど休んだ。母は、実母と夫をたて続けに亡くし、精神的に参ってしまい、顔の半分が動かせなくなる顔面神経痛になってしまった。(そんな母に私は大学、そして大学院と長きにわたり、お金を出してもらい勉強させてもらったのだ。) 大学に戻ると作曲科の椎名先生から香典をいただいた。まだ数回しかお会いしていないのに「君とはこれから長いつきあいになる気がする」と言われた。
様々な出会いに恵まれた大学時代、大学院時代を経て、縁あって埼玉県での採用試験に合格。1979年(昭和54年)埼玉県立杉戸農業高校に新任の音楽教師として赴任。ここから音楽教師としての生活が始まる。
元・埼玉県立川越高校音楽部ー吉田寛先生