普門館の想い出 高田志穂先生
普門館の思い出
私は、学生時代「吹奏楽少女」ではなかったため「普門館」を知らないまま吹奏楽部顧問になり、2006年、中学校の部で初めて全国の舞台に立ちました。普門館に行くことが決まると私が何も知らないことを心配して、たくさんの人が色々と教えてくれました。 「とにかく大きいからね、怖じ気づかないように」「音が跳ね返ってくるから気をつけて」「裏にある祭壇は覗いてはいけないよ」などなど・・・。
あまりにも未知の世界です。ドキドキしながらホールに向かいました。バスの中から普門館が見えると子どもたちが大歓声を上げ「大きい~!」「キレイ!」と大騒ぎ。涙ぐむその表情は忘れられません。全国大会に出られてよかったと思った瞬間でした。 普門館に到着すると、本番までの流れは意外と普通のホールと同じです。駐車場で楽器を出し、ロビーの片隅に楽器ケースを置き、階段の踊り場でハープのチューニングをします。チューニング室も決して広いわけではなく、靴を脱いで入り、音を出します。ある作曲家の先生から「普門館対策をする学校もあるけど、普通のホールだから大丈夫だよ」と励ましていただいたことも後押しし「大丈夫かもしれない」と思って、いざ舞台裏に行くと……舞台裏がとっても広い!舞台の倍くらいあります。そして、舞台に出ると客席が遠くてまるで宇宙空間に来たようでした。「普通のホールではない…」すぐに分かりました。そして、なぜみんなが『普門館』を目指すのかということもよく分かりました。初めての普門館はただただ圧倒されて終わりました。ちなみに、当時、私たちの間では「普門館に行くと、舞台裏で『ここまでよく頑張りましたね』と指揮者にお茶が出る」というステキな噂があり、「どんなお茶が出るか教えてね!」とみんなに言われ、期待して向かいましたが・・・お茶は出ませんでした。
翌日は合唱全国大会、そして震災。
その後、2010年には吹奏楽部員が翌日行われる合唱コンクールの全国大会にも出場することになり、普門館で演奏を終えて、すぐに合唱の全国大会に兵庫に向かいました。しかも、運悪く台風。今考えると凄いスケジュールだなと思うのですが、嵐の中普門館を出て、川沿いを歩いたことを覚えています。翌日の合唱全国大会の表彰式では、合唱連盟の会長さんに「昨日は普門館で吹奏楽の全国大会だったんだよね!すごい!おめでとう!」と言われ、会場中に祝福していただきました。音楽を愛する仲間の気持ちは、吹奏楽でも合唱でも同じだということを感じる瞬間でした。
2011年、震災の年は大変でした。当時務めていた八軒中学校は被災し、アンサンブルコンテスト全国大会の出場を断念しました。その後も復興支援の為に私たちは歌を歌い続けました。色々な思いを抱えての全国大会。普門館に着くと、ステージには「響け復興のハーモニー」の旗が掲げられています。この旗の下、出演順1番で演奏するのだと思うと涙が出ました。この年の全国大会は私たちの晴れの舞台ではありませんでした。私たちは、私たちを支えてくれた方の為に、一生懸命演奏しました。
普門館での出会い
普門館ではたくさんの出会いがありました。普門館では舞台裏で顧問の集合写真を撮っていただけます。当時日進中だった清野雅子先生とは2年連続で出演順が前後し「先生…去年もご一緒しましたよね」という会話から現在も仲良しです。また、震災の時に私たちを心配し、お手紙で交流していた名古屋の汐路中学校さんとも普門館で初めて会いました。ずっと励ましてくれていた遠くの仲間の演奏を聴き、拍手を送り、普門館で会ってお礼が言えたこと、とっても嬉しかったです。吹奏楽によって子どもたちは多くのことを学びました。
普門館が使用できなくなることは、同僚の先生が新聞で見つけて教えてくれました。子どもたちはもちろんガッカリしながらも、名古屋での全国大会もまた楽しみにしていました。名古屋での全国大会の時、普門館の床をいただいて「ああ、もう普門館に立つことはないのだなぁ」と実感し、何ともいえない思いが込み上げてきました。
「吹奏楽少女」ではなかった自分がいつの間にかすっかり吹奏楽の魅力に取り付かれたのは普門館があったからなのかもしれません。
元仙台市立八軒中学校教諭 高田志穂