「忘れ得ぬ、2004年の普門館【1】」原田実先生
三出がかかっていた2004年
Q:そもそも2004年はすべて金賞による三出がかかった年でした。先生と部員の皆さんにとってどんな年だったのでしょうか?
A: 確かに三出はかかっていましたが、特別に何かを変えるという事はありませんでした。ただ、3年生の子たちは入学以来ずっと全国大会金賞です。大変な思いをして得られる結果なのに、悪い意味でそれに慣れてしまう可能性はある。そのことは恐れていました。その点については少し意識して声をかけていたかもしれません。
Q:選曲についてうかがいます。自由曲は「コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディ(※)」でした。中学校であの曲を全国大会で演奏したのは出雲一中さんが唯一です。(※大会規定によるエレキベースの使用禁止により、今では幻のコンクールレパートリーとなった名曲。)
A: 毎年選曲には困っていました。(今もそうですが。。)たまたま2002年の全国大会で市立柏高校さんの演奏を聴き、これは面白いと感じていました。後半の歌いこむ箇所が好きで、ハードルは高そうだけどやってみようと。
ドラムも目立つ曲です。パートリーダーの梶田康広君という生徒に任せましたが、最初は苦戦していました。実は、梶田君のお父さんが当時一中の副顧問で、彼も専門は打楽器です。きっと見えないところで親子ふたり、二人三脚で相当努力してくれたんじゃないでしょうか。
中国大会ではこんな一幕も。楽器搬入後、梶田君はシンバルを運搬トラックに置き忘れたと思い込み、運営スタッフとトラックを追いかけました。ところが、積まれていなかった。結局は別のスタッフが降ろしていて、ギリギリ本番には間に合ったものの、自由曲の最中にもセッティングを調整する程の綱渡りでした。
色々ありましたが、最後には非常に頼もしい演奏をしてくれていました。
全国の舞台へ、そして…
Q:様々な事がありながらも辿り着いた舞台。いざ本番、というときにあの地震が起こりました。
A:セッティングを終えアナウンスを待っているとき、客席がザワつきはじめました。様子がおかしいとは思いましたが、背を向けていて何が起きたのかよくわかりませんでした。間もなく係員の方がステージに入ってこられ、舞台袖に避難するようにとの指示が。そこで初めて地震があった事を知り、舞台上の吊り物の揺れや、降ってくる粉塵に気付きました。
今、北陵高校で一緒に指導している竹内先生が当日2階客席におり、後ろの席の人に蹴られたのかと思うほど揺れたそうですが、私は緊張のせいか、揺れは殆ど感じませんでした。生徒たちも同様でした。
ステージ袖では運営スタッフの皆さんがせわしなく動いておられました。想定外のケースです。当然判断にも時間が必要となります。しばらく様子を見ていましたが、集中力を持続するのも難しく、生徒たちにも徐々に戸惑いや気の緩みが広がり始めました。
見通しの立たない状況でしたが、生徒たちには「なるべく集中力を切らさないように」と声をかけました。
この時は、地震への不安もさることながら、「このまま演奏できず終わってしまったら、ここまで頑張ってきた生徒たちに何と声を掛ければよいか…」という思いが強かったことを覚えています。
祈るような気持ちで待っていました。
Q:その後再開の判断がくだり、場内アナウンスが。チューニングの音で、館内が少し沸きました。
A:再開が決定し、あとは舞台スタッフさんのOKが出るのを待つばかりとなりましたが、「側板や吊り物の揺れが収まり次第」との事。この待機時間はかなり長く感じました(笑)。その時点で中断から2~30分程経っていましたから「チューニングを」と仰っていただきました。
本当は「チューニングはいいから一刻も早くステージへ!」という思いもあったのですが、少し音出しをしてステージに向かいました。
(次号に続く。)
出雲市立第一中学校/出雲北陵中学高等学校顧問 原田 実先生