Lamentation to- と兼田敏
兼田敏と私は芸大作曲科の同級生だ! 彼はその頃の芸大へのエリートコース、京都の堀川高校の出身で入学当初から煌めくような才能を発揮していた。そんな彼がひょんなことから私の家に下宿することになり、1年間狭い私の部屋で一緒に過ごすことになった。
このことがきっかけで、彼とは同級生の中でも特別な間柄となり、作曲上の良きライバルだけでなく(兼田は私より先に日本音楽コンクールの作曲管弦楽曲部門で第一位を獲得していたし、吹奏楽コンクールの課題曲も早くから何曲も委嘱されていた)、兄弟以上の付き合いが卒業後も延々と続いた。そんな彼が、「お互いのための葬送の曲を作ろう」と冗談半分に提案してきたので、私も冗談半分に受けて立った。
その後、彼は1986年度吹奏楽コンクールの課題曲に《嗚呼!》という曲を作ったが、そのスコアを私に送ってきた表紙には、「嗚呼! 保科洋!」と黒々と書かれていた! そう、同封の手紙に「この曲はお前のための葬送行進曲だ!」と書かれていたように、彼は約束を忘れてはいなかったのだ。私はその頃はまだ元気でピンピンしていたので、冗談にも程がある、と適当にあしらっていたが、彼は「お前は薄情だ! 俺は約束を守ったのにお前はまだ書いてくれていない」と文句を言う。私は「生きている人に葬送曲を書く方が失礼だ」と負けずに言い返していたが、その後、彼が癌を患ったことを知って、人一倍天邪鬼(あまのじゃく)の彼の事だから、彼への葬送曲を作れば意地でも死なないだろうと、その時書き始めていた「オーケストラのための変奏曲」の終曲を、慌てて彼への葬送曲《Lamentation to―》にする事に予定変更し、曲全体にも彼との長い付き合いの中での彼への想いを加味して彼の病状回復を祈った。
しかし、我々の願いも虚しく彼は2002年に66歳の若さで他界してしまった。彼と一緒に委員として盛り上げてきた日本バンドクリニック(当時はヤマハの「合歓の郷」で開催されていた)の初日だった。
バンドクリニックの代表を務めていた私は、急遽予定を変更してクリニックを「兼田敏追悼の会」に切り替え、私の《Lamentation to-》 を初演した。その後行われた「兼田敏音楽葬」の実行委員長を務めた私は、そこでも「Lamentation to― 兼田敏」として披露した。
芸大在学当時から、その頃世界の作曲界を席巻していた12音技法の風潮に疑問を抱いていた私に、吹奏楽曲という新しい可能性を秘めた曲を書くきっかけを作ってくれた兼田敏は、今日の「作曲家・保科洋」を生み出してくれた恩人で、その恩人のために書いた《Lamentation to-》 は、私にとっては特別にこだわりのある曲である。その彼への想いは、今年3月に開催された「響宴」の会で演奏した《Lamentation to―》でも誠心誠意披露させてもらった。このCDで彼への私の想いが聴く人にも伝わってくれたら、こんなに嬉しいことはない。
保科 洋
Lamentation to―と嗚呼!が収録されたアルバム
大人気「藝大WO」シリーズ7作目は7人の藝大出身作曲家の代表曲を指揮大井剛史、藝大WOによりレコーディング。 100年を超える藝大の歴史を感じることのできるアルバム。