「音楽教師、最後の10年」:吉田 寛 先生 第8回 7年目『56歳、初の全国大会へ』
2011年。7年目でついに全国大会の舞台へ。
迎えた7年目。2011年。この年のSVECは金賞と銀賞の一番上。そしてなんと、去年TVEC(東京・ヴォーカル・アンサンブル・コンテスト)で撃沈した生徒達が再挑戦して金賞を受賞したのだ。指揮も生徒が行った、生徒だけでの演奏だった。1年間でここまで成長した事に驚いた。「悔しさ」が生徒を成長させたのだろう。
新年度に、心ひそかに期待を抱いていた3月11日。あの東日本大震災がおこった。私は南三陸町の出身で、親戚や友人がたくさん住んでいる。私はそのとき銀座のヤマハでCDや合唱の楽譜を探していたが、買い物どころではないと思い、故郷の友人に電話した。誰にも通じない。まずはとにかく急いで家に帰ろうと思った。しかし電車はすべて止まり、駅のそばの大きなモニターには家や車が津波に流されている映像。現実とは思えない光景だった。駅でそのまま夜を明かす覚悟で待ち、少しずつ動き出した電車を乗り継ぎ、家に帰れたのが夜中の2時過ぎだった。故郷は皆さんもご存じの通りである。同級生や知り合いが何人も亡くなっていた。
学校は学年末テストの最中で、部活はなかった。音楽室では時計が落ちて壊れ、音楽準備室では扉つきの棚の中にしまってあったコンクールの楯が床に落ちて散乱し、机の上の本も床に散乱していた。助かったのは金魚の水槽が、壁に寄りかかった状態で倒れていなかったことだ。
この年は、震災のため卒業式が中止になった。3年生は残念な気持ちのまま卒業したことだろう。
迎えた春。新入部員がたくさん入部し初めて60人を越えた。そしてこの年から松山女子高と、お互いの定期演奏会で混声合唱をやるようになった。
今でも覚えている。松山女子高校の定期演奏会が終わって、控え室に戻った部員を前にして「君たちは、私の自慢の生徒だ」と伝えた。TVECで金賞が取れたことがきっかけで、生徒達は自分に自信がついたのだと思う。堂々とした歌いっぷりだ。生徒は何かのきっかけで驚くほど変わる。もちろん日々の練習をしっかりやっていればこそのことではある。
この年の定期演奏会に埼玉に避難していた被災者の方々を招待することを思いつき、部員に相談したところ彼らは快く了解してくれた。大勢がまとまって避難しているところには慰問や支援が数多くあるようなのでそれ以外の所を探すと、私の前任校のある鳩山町にも150名くらいの人たちが避難してきている事がわかった。ただ演奏を聴いてもらうだけでは申し訳ないので、バスでお迎えに行き、午前中は川越の街をガイドさん付きで散策してもらい、ちょっと豪華な昼食をとっていただき、午後に演奏を聴いてもらうという企画をたてた。鳩山町役場や川越市役所、ガイドセンターなどにも何度か足を運び、ガイド料金や見学先の入場料も無料にしていただいた。
大勢来てもらえるのでは、と考えていたのだが、2家族で5名の方々の応募しかなかった。震災からまだ4 ヶ月、なかなか外に出て楽しもうという気持ちにはなれなかったのかもしれない。それでも「何かできる事から始めよう」という気持ちで一歩を踏み出せたことには、大きな意味があったと思っている。
そしてあっという間に迎えたコンクール。県大会は出番が2番だったのだが、4位金賞。関東大会を2位通過し、ついに全国大会出場。全国大会では銀賞を受賞した。
毎年全力でコンクールに挑み、全国大会出場という夢に届かず、その思いを後輩に託し、つないできた部員たちの熱い思いと努力がついに実を結んだのだ。
ようやくここまでたどり着いたのだが、それは桑折先生やK先生、そしてゲストブックで私を救ってくださったAさん、合唱のことは素人そのものだった私をずっと見守ってくださったOBの皆様、自分の子供が卒業しても音楽部を応援してくださった保護者の皆様、コンクールでのピアノ伴奏をすべて引き受けてくれ、まるで部員のように都合を合わせてくださったピアニストの野島万里子さん、穏やかで、様々な雑務も引き受けた上、話していると安心感を与えてくれる副顧問の松本先生、ここに書き切れないほど沢山の人達の大きな支えによりたどり着けたのだ。
合唱に関わって7年目。56歳の時だった。(56歳での全国デビューは最年長記録?)
元・埼玉県立川越高校音楽部ー吉田寛先生