ブレーン・オンライン・ショップ |「音楽教師、最後の10年」:吉田 寛 先生 第2回『青天の霹靂、川越高校へ』吹奏楽・アンサンブル・合唱の通販サイト

× CLOSE

「音楽教師、最後の10年」 元・埼玉県立川越高校音楽部ー吉田寛先生

「音楽教師、最後の10年」:吉田 寛 先生 第2回『青天の霹靂、川越高校へ』

合唱とは無縁の教師生活26年。そんな吉田先生に、名門・川越高校への異動が告げられる。教師をやめようとまで悩んだ先生は―

2018年8月29日
 

 1979年(昭和54年)に埼玉県立杉戸農業高校に新任の音楽教師として赴任して以降、26年間は合唱に全く縁が無かったが簡単に振り返っておきたい。


 杉戸農業高校に赴任し吹奏楽部顧問に。当初、生徒たちの部活動への意識はあまり高いとは言えず、コンクール2日前に練習を休んで文化祭の買い物に行ってしまったり、遊ぶために練習を平気で休んでしまったりするようなこともあった。


休日練習の時には「先生おごって」といつも言われていたが、1年が過ぎる頃には私のお弁当を交代で作ってきてくれるようになった。しっかりした部長さんの時だったと思う。その頃、楽器を鳴らすには体力が必要だと思い朝練習を始めた。家の遠い生徒たちも毎日休まず通ってくれるようになっていた。自ら憎まれ役を引き受け、部活を変えようとしてくれた生徒もいた。徐々に意識が変化していき、3年目には8年ぶりにコンクールDの部銀賞、次の年はBの部の銀賞を受賞することができた。


 5年後の1984年(昭和59年)、新設2年目の埼玉県立草加西高校に赴任。吹奏楽部を設立。2年目にコンクール初参加、Dの部で金賞。中学での経験者も入部してくれたおかげでその後は毎年Bの部で入賞することができた。1987年に結婚し、川越へ引っ越したため通勤時間は10分から1時間30分に。朝の基礎練習は生徒だけでやるようになった。基礎練習から顧問が関わるのと関わらないとでは、あきらかに音やテクニックに差がでてくることを感じた。かなりの技術を持ち、自主的に動ける生徒達が多い年もあったが、全体の仕上がりは思うようにいかなくなり、在任後半はなかなか金賞が取れなかった。音作りはとても重要な作業であることを実感した。ここでの14年間はずっと吹奏楽部を担当した。


 1998年(平成10年)埼玉県立鳩山高校に赴任。管弦楽部の顧問となる。赴任当初は10数人だったが、40名近くまで増え、一生懸命練習に取り組んでくれたおかげで順調に技術力も向上した。自分自身が高校・大学と吹奏楽や管弦楽に携わってきたので、吹奏楽器やヴァイオリンなどの弦楽器の指導を戸惑うことなくできたことが幸いした。高校や大学での部活動は技術的に役に立つだけではなく、いざ顧問となったときの部活運営面でも役に立ったと思う。

 

そして迎えた2005年3月。川越高校への転勤を命ぜられる。


 全く考えてもいないことだった。校長面接に行くと、「この学校の音楽の先生には、音楽部の指導と高等学校文化連盟の事務局の手伝いをしてもらうことになります。」と言われた。「合唱はやったことがない。」というと、校長は驚いて「本当なの?」と。川越高校の前任者は当時、埼玉県の合唱連盟の理事長。毎週のようにコンサートに通い、美術、宗教、歴史などにも精通している勉強家で、声楽の専門家でもあった。勉強嫌いの私とは大違いだ。努力嫌いで、好奇心に欠け、ピアノもろくに弾けず、川越高校の授業で歌っているであろう芸術歌曲など全く知らず、おまけにやったこともない合唱の指導なんてできるわけないだろう…。そんな思いがぐるぐると頭を巡り、落ち込んで家に帰ってきた。妻に「川越高校には行けない、断れないのなら教員をやめる。」とまで言った。


 妻と話し合った。「子どもたちに、父親が逃げ出す姿を見せたくない。」と言われ、「やってみてどうしてもだめなら、そのときはやめればよい」と、無理やり開き直って赴任することにしたが、何もできず生徒の前でお手上げ状態になる自分の姿が目に浮かび、とても苦しかった。50歳の大人がそういう状態になることがどれだけ恥ずかしいことか。「何とかなるさ」というような楽観的な想像は、到底できなかったのである。

元・埼玉県立川越高校音楽部ー吉田寛先生

チェックしたアイテム

カテゴリーからさがす